礼文島から利尻島へ。新たな気持ちではじまるこれからの一歩を!。

9月20日のフェリーにて長きに渡る滞在地の礼文島からいよいよ利尻島へ移動が始まった。

9月3日より天候を見ながらの学校訪問では、予想通りの2週間以上の設定で考えていた事とほぼ同じくらいの日程を過ごしまず期待通りの記録が叶ってここを後にする事となりました。

今回の利尻礼文行きでの計画では、利尻島の利尻富士町役場の熊谷様を核に頂いたご縁ですべて行程が進められる事となりましたが、ようやく利尻島に渡る事でお初で会うことが出来るものです。

礼文島での長い滞在での“暮らし”を終えると同時に今度は利尻島でのまた最初からの積み上げの期間が生れる事となるわけです。

新たな気持ちでまたはじまる一歩からの積み重ねです。さあ~、これから心機一転新しい出会いに喜びを感じながら今、この渡る船上から思い描くものでした。

新しい出会い、、次のページで。

 

 

 

 

 

礼文島活動での重大報告・・・「20年間のテーマ活動で初とも言えるトラブル発生が!」

 

活動内における重大報告

【件名】 トラブル発生 2件。

 

1996年10月20日、第1校目から始まって以来およそ20年間の学校訪問活動における初めて体験するトラブルが発生しました。

 

この度の北海道の礼文島、利尻島の学校訪問活動では、今までとは異なり個人だけの動きではなく、公的に世に支援を求めての「READYFOR」にてファンドを募り、その公募中に支援題材にあたります「日本最北端の北海道の小中学校の子どもたちに会いに行く」のプロジェクトで実行させていただきました。

プロジェクト自身は、9月30日をもちまして期限満了となり、結果は目標額設定には到達までには及ばなかった事で規約通りに不成立のために白紙終了となりました。

 

広く一般に「公表」いたしましたプロジェクトであります事で、活動報告はホームページもしくはブログにて皆様にご報告致すもので、これにおいては、利害関係を一切排除してのクリアーな形で報告がなされなければなりません。

例えそれが私個人に取りまして利益、不利益になる事に関係なくきちっと報告する責任があると考えます。

その事で、この度の「礼文島」における活動の中で、予期もせぬトラブルが発生しまして、実際にこういう事実としてありました事で明確化をさせていただきます。

 

 

●トラブルが発生したとする場所。

「学校」

~礼文島内4校の小学校と2校の中学校のあるうちで、その中の1校の小学校です~

(トラブルの点に付いての事から、学校名や個人名の掲載はネット上である事で控えています)

 

6校中、5校が訪問への承諾をいただいておりました事で、残る1校の本テーマによる訪問記録活動への受け入れに関して「検討」を頂いていた学校にてトラブルが発生しました。

 

1 原因不明のトラブルについて。

 

【トラブル発生日】

2015年9月14日月曜日  13時30分頃。

 

【トラブル形態】

相手方の校長先生との会話中に、教頭先生によります怒りによる強い言葉をいただいてしまった事。

 

【トラブルの原因】

かつて今までの行動の中では予期もしない初めての体験によるもので、相手方であります教頭先生のこの日の対応する態度に急な変わり様のトラブルです。 あらゆる想定をしてみても、未だにその原因の正確性がつかめないまま。

 

【状況】

かねてより本テーマでのこどもたちとの出会いで記録する学校訪問への了承を得るための「検討」をお願いしていた件で2度目のお尋ねに行った時の中で。 第一回目のお顔合わせの日からの懸案で、その検討中の内容の事でおよそ10日間の猶予期間を空けてその後の様子もしくは結果を尋ねて行った時の事です。

 

【トラブル状況の詳細】

島内の学校6校中、すでに5校まで終えてきた頃で、何とかこのテーマでのこどもたちとの出会いを形に記録する事での了解をいただきたく、この地区の子供だけを残さないで完結させたい思いで2度目の学校へ不安ながらも尋ねに参りました。 この流れの話は、前々ページとなります同じのブログ箇所の『北の果てへのこどもたちに会う ~礼文島での報告編 「活動の流れ」②』の後半の所で詳しく状況を説明していますのでご参考に。

この日は、午前中が船泊小学校の記録日でしたので終了後早々に片付けをし、午後の給食時間がすでに終えられている頃を見計らって、その後の確認に本件の学校へ行く事にいたしました。

玄関を訪れまして歩いて来られました先生職員の方に校長先生をお呼びいただきまして、今回の2度目でのお顔合わせは出会いましたその場の玄関内の上がり口付近で立ち話しとなりました。

「次回はお電話で・・・とのお話でしたが、近くの保育所まで来ました事で顔を出させていただきました」と挨拶しまして、その後検討中の件での事で様子を尋ねました。 やはり、結果は以前と変わらず、私からの説得への力が及ばず厳しい相談であると言う事でした。

 

余談ですが、 第1回目の時にお会いしました時に、この件での「検討」についての是非は時間をあけて電話を下さいと言う話を頂いてましたが、いずれにしましても校長先生には、やり取りする上での時間は避けられず、貴重なお時間を割いてしまう事では、やはりきちっと足を運んで行く事が大切と考え、あえて電話ではなく足を運びました。

 

元来、人との物事に対するやり取りにおいては例え面倒でも対面で話しをするのが基本的な人との接する形だと今でも思い、それが礼儀でもあり姿勢だと考えている部分があります。

あとは、たまたま礼文島に来てから町の計画での一環で、来年度にもしかしたら本テーマによる「子供の大切さ」をイメージさせる企画の話しも見え隠れしていた事もあり、その意味ではもうひとつの期待持てる説得案が浮上していた事で校長先生に話をして見ました。

しかしながら、「これが具体的に進んでいて、まさに教育委員会からの要請であればそれは出来る話だけれども、決まっていない事には協力は無理でしょう…」と、確かにごもっともなお言葉で期待も虚しくお心を動かせる話では至りませんでした。

 

そんなこんなでやり取りしていた時の事です。

 

いよいよ、今回のトラブルの発生がここから始まりました。

校長先生と玄関上がり口にて立ち話していた時に、後方より教頭先生が急に入って来られて、すぐ様、「校長、このあと〇〇〇からの来校のお客さんが来られる事もあり、ここで話しをしているのではなく、校長室かもうお引き取り願えられたらいかがですか!」と、かなり言葉高くのきつい口調で話して来たのです。

私はドキッとしました。え?どうしたのかな?…、と思うや束の間、

今度は、私の方を面と向かって「私は最初からあなたの事は良くは思っていませんでしたから!」と、今度はかなり強い言葉で吐かれました。

 

みなさまならこう言う場面に遭遇した時にはどう対処するのでしょうか?

なんの理由も告げられる事なく、のっけにこの言葉を浴びさせられた私は言葉を失い、ポカ~んと真っ白になりました。何が起きたのかがまったく不明で分かることができません。

今分かる事とは、とにかくトラブルが起きた事だけが目の前に発生したと言う事が頭の中で置かれて行きます。

ただ、突然何の前後もなく浴びせられたのです。

 

ここで最も感じ考えた事とは、私が今回礼文島に来ての学校訪問活動での人との関わり合いで、お世話になった方々の迷惑や損失を被る事をまず考えました。

あってはならない事が起きれば、この度の事で多くの期待やテーマへの完成を喜んでくださっている岩城教育長の事や、そもそもこちらの学校の校長先生に向けて、同じ校長先生の以前からの私のご紹介までしてくださった方のお顔が浮かんできます。

お顔に泥を塗るような形をしてしまうことは絶対に避けなければならず命がけでも守らなくてはなりません。

そうしたいろんな方々のお顔が私にはいっぺんに浮かんで参りました。

とにかく、この自体は理由こそは不明なままですが、この場をいち早く退散することでまずは今が出来る事として立ち去るようにしました。

 

【トラブルへの対処】

原因不明なまま、この度のお願いは終了へ。

この時にすでに、もうお願いやご検討を仰ぐ事は此れにて最後とし、これ以上学校にお尋ねをする事は迷惑と判断し終える事としました。

 

【所見】

しかしながら、あの罵声とも言える教頭先生の言葉の浴びせた時に、なぜ校長先生は黙ったまま私の方を見つめているだけだったのかがまた不思議でなりませんでした。
・・・という事は、すでにお二人が共有していた事なのか?と想像するしかできません。
一言、「ま~ま~、、そこまでは言わなくても、、、」とあれば少しは心が救われたのかもしれないからです。

学校から立ち去ったあと、車の中で何故の理由があってその事が起きたんだろうと考え尽くしていました。
どうしても理由がわかりません。それもそうです、あれだけの言葉を投げるという事は大きな犯罪者となった者がその身内に危害が加わった時くらいなものでしょうから、それをどこに私の部分で充てはめてみればそう言う言葉になるのかがどうしても出てこなくまったく皆無なのです。

普通ならその場で大喧嘩どころじゃ無いでしょう。

 


ただ、理由なくそういう事は有り得ないと、一つは私自身に於いてはどこかに原因があると認めるべきでしょう。


それを思わないとまた次が起こりうる繰り返す事であるからです。 
ただ、その原因が見つけられないのが今回のトラブルの大きな問題点です。

その言葉を浴びる事は置いといて、では、普通にどこか欠点はなかったのかを流れから見つけていくしかありません。

第1回目の時にお会いしました時に、「この件での検討についての是非は時間をあけて電話を下さい」と言う話を頂いてましたが、いずれにしましても校長先生には電話にしてみてもやり取りする上での時間は避けられず、貴重なお時間を割いてしまう事では、やはりきちっと足を運んで行く事が大切と考え、あえて電話ではなく足を運びました。
もし、その事が原因だとしたらいかがなものか?を想定してみるのですが、どうしてもあの言葉が出て来て、「そんなに悪い事をしたのかな?」と置いてみればどうも理解できなくなるのです。

元来、人との物事に対するやり取りにおいては例え面倒でも対面で話しをするのが基本的な人と人との接する形だと今も思い、それが礼儀でもあり姿勢だと考えている部分があります。
便利なツールを使う事が今の常識だと言う事もあるかもしれませんが、基本的に人とは道具が先ではないと今も信じているからです。 もちろん、理由があってそれで済ませて欲しいと言う要望は否定するものではありません。

接点としては、一番最初に学校にお邪魔しました9月4日に来て以来の今回は2度目である事で、大きく変動するには接触した時間や回数は無く、最初からの訪問日から今回だけとなります。

つまり、急変するための原因はその第一回目にある事を考えざるを得なく、その中でどこがそうさせたのだろうかと考え尽くしました。 前回の状況からは校長先生がまだ子供達とお昼の食事中だったために、教頭先生が対応して下さり校長室へ案内していただきました。 
その際には丁寧なご対応を頂きながらお名刺もいただいてのごあいさつを頂けた位なほどの大変好感を抱くものでしたので、余計に今回の急変ぶりには理解できなかったのが正直な「一言」であります。帰りにもきちんと玄関口までお二方に見送られる形で帰りましたのでなお更です。

結局ははっきりとした原因が見つからないままの現報告となりました。次回に生かすための方法には残念ながら至っておりません。

 

 

 

2 「こどもたちの記録を何とか形にさせたい」思いから起きたトラブル

 

●トラブルが発生したとする場所。

「学校」
上記の同一学校におけるトラブル発生。

 

【トラブル発生日】


2015年9月17日木曜日  10時前後頃。

 

 

【トラブル形態】

 

電話による校長先生からのお叱りを受けた事でそのトラブルが発生した事をそこではじめて確認する。

 

 

【トラブルの原因】

 

校長先生からのお電話を受けました内容から、私が地域のこどもたちに会えるための方法を探していた中で、その尋ねに行った先の地域の方としてPTA会長にお会いし、その事で学校休日の日に、可能であればこどもたちが集まってくれる方法は無いものかを相談に伺った件。

 

 

【状況】


校長先生からのお電話ではご立腹の様子にて「一体何を考えているんですか!学校が駄目なら今度はPTA会長に会うなんてどういうことですか~」と、「こどもを集めてくれと言ってPTA会長がこうして学校に来て困っているじゃないですか~!」とお叱りを受けてしまった事。
更には上記の1番目のトラブルでの件でも、「約束も取らずに学校に急に来て」「あなたは大人でしょう~、大人なら常識でしょう!」との連続のお叱りを受けた事。

 

【トラブルの要因となった状況を検証】

学校が駄目なら今度はPTA会長に会うのですか?


この辺の捉えるニュアンスには難しいところがあります。確かにこの言葉だけであれば「一体何を考えているのかあなたは!」と来てもおかしくはないと思います。
今回の事では、すでに「学校」は上述の通りにお願いへの「検討」はご迷惑になると判断でき終了させました。 テーマでの純粋に学校を通しての記録活動は行えないままでの終了です。

 

 

まず、私が抱えている背景に大きな要因があります。


そもそも礼文島で始めるにあたり多くのみなさまの期待と協力をいただけた事で、当初には考えられなかった新たな希望のもと、町が将来的に町のためになれるようなこのテーマが担える事に期待感が寄せられていた事があります。
そうした背景を背負いながら、慎重に日々の学校記録では質の高いレベルでの記録をより徹して行く事となり、それがまた滞在期間での強いられる決定的ないい晴れ日を限定させて来たものです。


礼文島では、こうしたみなさまのおかげをもちまして、小学校、中学校及び保育園のこどもたちに出会う記録が叶う事となり、言わば礼文島のこどもたち全員が記録する事ができるまでに近づいて来た事があげられます。
その意味で、残すところあと一校のみのここに通う子供達となっておりました。

すでに述べておりましたように、その学校に於いての子供達と出会い、その記録への機会は不可能となっており、ここでの滞在もこれにて区切りがついた形で、20日には礼文島から利尻島に渡ります船の予約を取り付けております。
16日以後からは、特別な予定もなくお世話になりました方々への挨拶や礼文島内の観光めぐりも時間ある限りしながらそれまでを待つだけの行程でありました。

ただ、一つ思う事は、あの地域の子供たちだけが今回加えてあげられる事ができなく、それが個人的にも少々常に気ががりでありましたし、ましてや来年度からはもしかしたら町のための動きの中で、例えば「礼文島のこどもたち」と言うテーマで動いた時に行ってない子供たちの気持ちを考えたものです。 これらの記録したものが担う時となった場合に「私たちだけ来なかったよね!」と子どもの心に深く残したり余計な思いを与えなければいいな~と危惧し心配するものでした。
それを思うと、まだこの礼文島に居る間に私が今出来る事は何があるのか・・・を常に考える時間が押し寄せてきていて、それこそ観光めぐりなんて置いといてそればかりが頭を悩ます事となっていました。
その際に、民間レベルでの話として、私が地域を訪ねてその中で学校に集まってもらえる話は出来ないものか?を考えたわけです。


そうは言っても、いったいこどもたちの家は何処にあるのかも分からないし、誰に聞けば地域の子供のことをよく知っている人が居るのかもわからない状況です。


例えば、味噌醤油お酒を求める時には酒屋さん、肉ならば肉屋さん野菜なら八百屋さん、あるいは道を尋ねるには駐在所・・・と言うように、子供の事なら「そうだ!PTA会長さんなら他の誰よりも地域の子供たちの事は知っているはず」と、実はその辺からここに至る背景がありました。

また、もう一つは、それを良いとする自己判断についてでは、もし私ではなく別な他の人だったら・・・を想定してみて、たまたま同じ思いでPTA会長の所に子供の事で尋ねて行ったとしてもそれ自身はだれも非難はされないとも考えてみました。
もちろん、それを私が考えるに至るところでは、やはり一度はこの地域の学校に関わり、それをもって不可能になった件があるので、良いのか悪いのかを決める上では、私にとっては慎重にならざるを得ないのは事実です。 その上であらためてまったく別人だった場合の想定を考えるものでした。


他の人としてならば誰であってもPTA会長と会う事でいけないという人は居ないし、それこそ物売りの営業の人がたまたまPTA会長の
家に訪問販売して来ても指摘される事はないのだから、自分に置き換えて見る私においても、それらを当てはめてみて特段問題はないだろうの判断を基準としたわけであります。


実際に会うための話としては、あくまでも「可能ならば」の話しで、そもそもが「駄目で元々」の感覚で伺う相談である事で伺ってみるのがあります。 最後の頼みみたいな殆ど確証がないままの案件では、もう全員でなくてもいいので、せめてこの地域のこどもに少し関われましたの証しが付く形でも構わないとも考えていたので、あくまでも出来る範囲の事での話しとしました。
その上で、相手には決してPTA会長としてではなく、地域の中で子供のことをよくご存知な方にお会いし相談してみたと言う形で、お尋ねしてみる・・・が条件であります。

それこそ有り得ない話ですが、町の放送で19日に学校に集まってくれるこどもたちを募集してま~す!と放送で呼びかけてくれたらどれだけ助かるだろうと考えていたくらいですから、PTA会長だからどうこうして欲しいという観念は全くありませんでした。

 

19日が土曜日で20日の船で渡る前日の休日に、学校に来てくれるこどもが居ればいいな~と言う思いで、地域の方にPTA会長の方を教えていただく事から始めました。
お店をやられていらっしゃる方に伺い、PTA会長さんとその住んでいらっしゃる所を伺いました。

ご案内していただけた場所に行きまして、お仕事も終えられて帰ってこられそうな時間帯になってきた事で、思い切って訪ねて見ました。
すると、まだお帰りではなく、少し外で待ってみますとお話をしますと、おうちの方がどうやらお電話をしてくださったようで目の前の職場から駆けつけてくださったのです。

その際に、テーマでの事で島内の学校での記録への話しをしまして、「この地区の学校とのご縁が叶わず記録ができなかった事で、なんとかこの地域のこどもたちの記録をしてみたく、19日の時に学校で撮れたらいいんですが・・・」と思いを話し、「どうしたら個人レベルで声かけて行けばいいのかがわからずで、PTA会長さんなら一番こどもについてはわかるかと思い尋ねて来ました。」と相談してみたわけです。
すると、「ならば学校にきいてみればいかがでしょう?」とお話がありました事で「いえ、今回は学校ではご縁いただけなかった事ですし、ましてやなにかと忙しく研究校にもあたっていて難しく、そのためにこうして私自身が地域を歩いて尋ねる事をしているのであります」と話しました。
更には、かえって学校に尋ねれば、断った事でPTA会長に会いに行っていると誤解を生むだで混乱させるのでそれは避けたい事で、「学校へのお尋ねは致しません」という形で、あくまでも個人でのお尋ねをお話しました。

また、PTA会長さんのお話から、
「実は私はこどもの事についてはわからないのです。今は学校の連絡網はすべてメールで学校から来るものですからそもそも知らないんですよ」と告げられ、結論的には「実際は学校に来てもらう事を伝える事は難しいと思いますよ」とのお話でした。
あとはお母さん方の個人的なつながりでメールのやり取りなどで友志の可能性があれば何よりですが、今回はかなり厳しい事の状況だけはだんだんと見えてきた事があり、PTA会長さんもお仕事の途中である事でも早々に話しを終えまして、帰りがけの別れ際で名刺だけをお渡しさせていただきました。 「もし万が一に19日に学校に来てくれそうな感じがあった場合、ここにある携帯電話にご連絡くだされば私も19日には学校へ行きますのでそのときはお電話ください」と挨拶だけをして別れました。

これがその時の詳細なお話のやり取りでした。

校長先生からのお叱りのお電話を頂いたのは、この次の日の事でした。PTA会長さんがやはり学校へ行かれたのでしょう。
その電話では、お話しのご様子からは「PTA会長が困って大変な事になって学校に救いを求めて来ている」そんな感じの言葉をいただきましたが、前日のやり取りの中での話の会話では苦情となる訴えが起きる話では全くなく、お互いにどうしたらそうできるのかですね~と、
むしろPTA会長さんも私の立場を汲んでいただいての気の毒さを感じてご対応してくださっていただいたのでどうしても苦情となるような困っていると言う話には結びつかず意外なお電話での様子の内容でした。

電話を切ったあと、「何を考えているのですか~、、こうして困ってきているじゃないですか~!」とかなりのお叱りの様子でありましたが、疑問点を感じる部分は、私の昨日のPTA会長さんとのやりとりからの話しの雰囲気で、「何とか叶えてあげたいものの今の私にはどうにもしてあげられない」の現実があって、それが私への気遣って頂ける話しのニュアンスからは、どうしてもそのお電話での情報が苦情的な流れになっているのが理解できないのです。
「困って…」の困ってとは、どうしたら良いのかをやはり一人で考えるのではなく一番よくわかっている学校に相談に行っていただけた気がしてならないのです。 その意味での「困った」のではないかと後で推測させられるものでした。
もちろん間違っていたら大変不謹慎な話ですが・・・。あくまでも電話での一方的なお言葉からでは正確さがわかりませんので、ここは苦情としてそうであったと受け止める事が大切なのでしょう。

 

【この度の2件のトラブルについての最終見解】

この度の事では、誰をせめてだれが犯人だというようなものでは全くありません。 こうしたトラブルは次に生かせるための前向きな反省材料である事と、なぜ起きたのかの原因追求でその真意をきちっと理解される事が大切で目的とされなくてはなりません。

 

【対処に向けての責務遂行へ】


今回の件では、そうした事実が起きた事を「事実」
として明確に伝える事からその問題に真っ直ぐに向き合う事が大切でありそれがトラブルが起きた時の対処する責務であると言える部分です。


原因が不明なままの1件に於いては今後も追求して明確にしていかなければなりませんが、あえて極端に言うならば、そもそも私が本テーマでその学校に行かなければそのような理不尽な結果もなかっただろうし、相手にも余計な思いをさせなかったはずだと究極には言える話で、決まった中で年間動かしている学校業務の中にそれらを持ちかけた事がそもそも原因の始まりだとも解釈されてもおかしくないので、そこは最終的には謙虚に受け止めておくべきだろうと、持ち掛ける者の覚悟は必要だろう。 良くも悪くも自分の存在から生まれたものと受け止める事で原因不明の事では区切りを付けて行くしかない。 更なる存在への謙虚さを高めていく事で解決へと前進させるのが結局はこうしたトラブルでの対処する意味であり再発防止への手がかりであろう。

 

2件目の事では、結論から反省する点は、そもそも関連性を繋がせられるような誤解を生むような立場にあれば、他の人を充ててみての検証からを基準にして判断する事ではなく、この場合は例え関係がないにしてもPTA会長には会うべきでなく避ける事が最適であると考えるのが適切だったと言える事です。 同時にそれが誤解を生まない手段である事を学び今後に生かす事でしょう。

この度の一連の1,2のトラブルについてはどちらも教訓として今後に生かして行く事を目標にして、検証されるべきだろう。

 

【問題の事実は明確に公表する】

この度のすべての事実は速やかに報告するものとし、その内容に明確な事実関係を維持させる意味でも記憶の新しい内に必要ある場所に公表しておくことが求められます。

そのために、礼文島ではこの度のテーマでの最初の開始時においての会談で礼文町教育長であります岩城様には事の重大さを第一に受け止め、9月17日木曜日の時点で、このトラブルの話しの全部をお伝え致しております。

後後に於いて話しがだんだんとずれて異なる事が無いよう、その時の現地での岩城様をはじめ、この度のテーマでの関わってくださいました必要な方へのこのトラブルについてお話しをさせていただきました。 ここでの記事の内容にその時にお聞きしました方とのズレが無いことを事実として確かに記録するものです。

トラブルについてのご報告をいたしました。

 

則直泰。

 

 

 

~北の果てのこどもたちに会う~ 礼文島での報告編  「活動の信頼性と、その公表性を高める努力。」③

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礼文島の名勝   桃岩

 

いよいよ礼文島での学校訪問への本格的な“島くらし”がはじまる。

 

9月3日(木曜日)に渡って来て、さっそく次の日の朝にこの度お世話になります礼文町の役場のご担当者であります産業課観光主幹の川村様にお会いし、かねてよりお願いをさせていただきました教育長との面談をこの日の朝に設定していただけることで礼文島の第一歩を踏ませていただけることとなりました。 その流れで教育委員会の学校教育課、社会教育課のみなさまにこれから島内の学校訪問で滞在型でお邪魔することとその流れや活動報告も必要に応じて出来るような意味でも当日いらっしゃいました一人ひとりの面識を終えました。  

今回は通常とは異なり、初の滞在型による「学校訪問」への島内の可能な限りの「こどもたちとの出会い」を大きな目的としました事で、あらゆる方へのこの「こどもはみらい」を提唱するための「おらが学校の・・・!おいでよ~ここへ!!」のテーマにおける「主旨とそのための活動の計画の詳細な動き方を説明」をする必然性を自ら責任性への役目をつくらせていただきました。 また、今回の行動については初めて「READYFOR」と言う広く一般の方々への支援協力を募る「公募」を同時に関わる流れにおいての同時進行形の実行を抱えながらの事でもその責務を自ら負わせて公表性を高める試みを導入させました。  

あと、いよいよお約束をいただけたことでの学校訪問が叶いましたこの度の礼文島への渡航が決まりました先の各学校の校長先生への初の面談へのごあいさつをする事で本格的に始まって行きます。  各方面でのあらゆる「ごあいさつ」はほぼこれにて済ませ、土日はさみ月曜日の7日より本格的な学校訪問へのテーマ記録がはじまります。

 

礼文島では、晴れ間の日と対岸する利尻島の利尻富士が映り込む学校については、その学校の約束日に2つの条件が整った事での記録撮影が必要でありました。 この件についても上記の皆様にはお話を致しております。

島内の6校中、5校が訪問への承諾が取れていることで、まずはその中から利尻富士が映り込む学校を選別し、学校が休みとなる休日には島内のすべての学校のロケハンを致し、利尻富士が画面に主としていかせる学校を見て回りつつ、晴れ間の時の太陽の位置を考える東西南北の確認と時間的な予想をいたしました。 利尻富士がいかされるその対象となる学校については校長先生との打ち合わせによって晴れ待ちと及び利尻富士がはっきりと全部が映る日の設定でお願いする事をさせていただく事を面談の中ではすでに話しを致しましてご理解をいただけました。

利尻富士の入らない他の学校につきましては晴れ間の出ている日を限定として相談させて頂く事を致しましてご理解のもと決定させていただくこととなりました。

そのロケハンでの調査をもとに、各学校へ相談と確認を打ち合わせさせていただいた上で、実際の学校側による都合の日程の決められていきます。  こうしてすべて記録へのご理解とご協力をいただけたことで、これから天候とのにらめっこで過ごす日々が始まりました。

肝心なのはあとはその設定日に思い通りの天候に恵まれるかです。

それはこのテーマでの記録するうえで常に付きまとう一番気がかりで神経をすり減らすものです。  実際始まってみると礼文島での天候待ちには、かなり天候不順が続いて思うようには進まない日も続いたりの厳しい状況もありました。  それだけでなく、今年の9月は平日が極端に少なく更には休日に「マラソン大会」「陸上大会」などがあり、その平日に代休が充てられることからより少なくありました。 

具体的に進められました流れにつきましてはこのあと、記録が叶いました日の掲載を羅列にて報告申し上げます。

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9月8日(火曜日) 礼文小学校 /  香深中学校

(同じ敷地内にある場所柄、同一日が可能です。ただ、今年は体育館建設工事のため予定させていただこうとした場所の記録ができなくなりました。あえて礼文小学校は利尻富士にこだわらずに修正する事で、その工事の影響がほとんどなく可能となりました。 同じく香深中学校も厳しい状況下であることがむしろ新しいアングルが生まれることで予期もしない最高の場所からの設定が生まれました。)

9月9日(水曜日) 神崎小学校

(今年度が閉校のために、こうした記録する身の私がご縁あってここに居ます事で、その閉校の記念になれるようにこの日は学校へプレゼントをさせていただきました。  後にあらためて本テーマでの作品記録を予定させていただきました。)

9月14日(月曜日) 船泊小学校

(9日以来、平日は天候不順が続いてやっとの安定日になりました)

9月15日(火曜日) 神崎小学校 / 船泊中学校

(神崎小学校の2度目の本テーマによる記録を実行。船泊中学校も同一日で午後の設定で予定通りのアングルからの陽の加減も良好でした。)

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このように晴れの日が記録日と見ていただければ、かなり待っている日が多く、天候の浮き沈みを繰り返す波があります。

さて、この度検討をお願いして来ました学校についてですが、

9月14日(月曜日)には、船泊小学校の記録が終え、その午後に給食時間が終えた頃を見計らってほぼ10日期間を置いての本日、検討をお願いをしておりました学校へ2度目の訪問をする事でその後の確認をいただきに参りました。

結果から申し上げますと、前ページの記事にも書きましたが、その日の面談での記録へのご理解と参加への説明をしつつ、更にはご納得いけない部分ではいろんな形での提案も思える限り尽くしましたが、校長先生の心に届くまでの説得には力が及ばず、当初よりのご判断にはその後も動くものではないままの結果でありました。 このような結果論から申し上げますと、とても思いは残念でございましたが校長先生にはご検討へのお時間を割いていただいたことに対して誠に感謝を致すものです。

 

ところで、

その時の学校訪問でのご検討の結果を伺う時の事で、予期もしなかったトラブルが発生し、この件については前ページの箇所でも触れましたように私自身の利益、不利益に関わらずきちっと状況報告はしないといけません。

その、2度目の学校訪問での今日には、校長室までには上がらずの玄関内の下足場所に置いて立ち話しにてやり取りを致しておりました。      この時、この場でのやり取りの中で起こる「トラブル」についてが、今回、あらためて重要な件が発生した事で、この度のプロジェクトにての合わせての活動となる事では、実質プロジェクト自身は公募額に満たされなかった事で成立が出来なかった訳ですが、すでに世に向けて募った事で公的活動として報告をいたすもので、その事では別枠にてこの件での報告をきちっといたします。 

~活動報告が終了しました時点にてあらためて追記での枠を設け、その状況報告を申し上げます~

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 礼文島の新しい観光スポットとなった映画「北のカナリアたち」ロケ地。       学校の印象をイメージするステキな場所にもなっている。

 

 また。今テーマでの「おらが学校の・・・!おいでよ~ここへ!!」におけるこの度の「READYFOR」のプロジェクトが同時進行で公募の活動である事で報告を致しておりますが、他に保育園のこどもたちを含む「ようこそにっぽんへ!」のテーマでも合間合間で実行しております。

島内の2園であります「香深保育所」、「船泊保育所」に訪問記録を致し、特に島のこどもたちのイメージをつくるために前代未聞の2園が一緒になった全体記録を計画し、礼文町の全面協力を頂けた事で叶いました。

利尻富士が海にそびえ、 景色のいい「北海道立礼文高校」にて計画案を出しました。

それぞれの園からバスにて園児たちを高校にお届け頂き叶うことが出来ました。 この背景では町の保育所を管轄致します船泊支局長の越後様、本局町民課の濱谷様には全面協力をいただきまして誠に感謝の限りでございます。

合わせて、香深保育所、船泊保育所のみなさまにはご理解とご協力をいただくだけでなく、季節柄お遊戯会への発表会に向けての練習の最中にありました事でもテーマへのご関心と期待感を寄せてくださりましてのご尽力に心より感謝申し上げます。

この場を借りましてすべての皆様に対しまして再度お礼の感謝を申し上げます。誠にありがとうございます。

 

以上、礼文島での学校訪問では、15日を最終として、20日には利尻島へ移動をかけて行く事となりました。

 

 

 

 

~北の果てのこどもたちに会う~ 礼文島での報告編  「活動の流れ」②

稚内に居る時に、礼文島での過ごし方にどのような形でほぼ半月ほどの日程を仮設定してイメージしてみる事を常に思い浮かべておりました。

そもそも、礼文島、利尻島へ渡る計画が具体的になった7月の初旬の段階で、私が関わって来ていた書籍雑誌の「島へ。」の元編集長の森田さんにメールをしたことから、知り合い関係を紹介していただけたことで情報への不安からの安心へと始まったものです。

利尻島の役場のお勤めの熊谷さんを紹介していただき、まずは礼文島の事では人との関係では皆無だったことで、熊谷さんに礼文島の役場の主になる方をご紹介していただいた。

さっそくその方に連絡をし、礼文島での滞在をお知らせをしながら、渡航の際にはさっそくお会いする事で稚内からの事前連絡が整った。

 

夏休み前には、各学校に向けてのテーマ作品による主旨文と学校訪問への是非を伺います書面への発送をさせていただいており、受け入れの了解の上で次なるお話の前提のもと、作品上必要となる子供たちとの出会える記録時間で、全校児童生徒が集まっての記録へのお約束を後日の連絡で取る事になるまで来ておりました。

写真記録では、おおよそ10分から15分を見込んでおり、全員が並んでメッセージを贈っている形の揃っての発信でありますので、こうしてずっと以前からのお約束が取れる形にて書面をお届けする事は絶対条件の必須であります。書面はそのためにあるものだからです。

よく記録では、「校舎だけですか?」とか「こどもたちが遊んでいる姿ですか?」と勘違いされる事がありますが、全員が集合しての並ぶ体型がテーマでの主の構成なので、こうしてあらかじめ文書でのお知らせが不可欠な訳です。

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礼文島の新しい代表の観光スポット。 学校のイメージでもあります分校が人気。映画「北のカナリアたち」のロケ地です。

 

夏休み中の8月入って、書面の到着と開封してでの確認をお尋ねする電話をかけまして、まずは訪問への是非を伺うことからはじまります。

たまたま、ほとんどの皆さん(校長先生)がお盆前まで夏休みを取られていらっしゃったことで、次に出勤されます日を受けた先生より伺いまして、その日以降に再度連絡をいたし、ほぼ90%近くの了解が各学校より頂いた事で、礼文島、利尻島への計画が一気に具体的となりました。

私からの主旨文からの話しではなかなかご理解をいただけるための了解がうまく取れない学校につきましては、電話口での即決を問うものでは無く、検討していただく事を引き続き継続してお願いをさせていただき、実際に島へ渡る事が確定できている事から、渡航以後にこの書面では無く実際に顔を出し、更にお話しを面と向かい合わせての事での訪問にて、一度ご挨拶のもとで検討中の件をあらためて伺う事で保留にして行く事にしたものです。

これにて、すべての学校へのかかわりについては現地であらためて校長先生とのお初の面識をさせていただきご挨拶後に、実際の約束日に記録する事が可能となります。

 

礼文島では、9月3日に渡り4日の朝にご紹介いただきました産業課観光主幹の川村さんとお会いしました。

すでに、4日には教育長との面談を希望していた事で朝の9時に設定をさせていただいてました。

教育委員会へ移動し、まず次長の須田様とお会いし、ご一緒に教育長室へ。 教育長の岩城様との面談では、かなりのお時間をいただきまして、このテーマでの「こどもはみらい」における島の各学校訪問での子供たちとの出会うための記録写真には、思いのほか興味と関心をいただきました。  その思いの中には少しでも島のためになれるものならばの、島を思う気持ちがこめられまして、記録へのこれからの期待を頂戴する事が出来ました。

日頃より子供たちへの教育に関する事や、この島の子供達と島の発展への思いを重ねたお話もしていただきました。教育長として本当にふさわしい大変素晴らしい岩城様で感動しました。

私もその思いを胸にこれから始まろうとする島内の子供達との出会いでの今テーマ記録の上では、大きな役目を感じつつの新たな気持ちで向かう事になりました。

そう考えれば考えるほど、あとはすごく意味が伝えられるだけの記録への思いです。そのための天候への配慮とその天候からの作るとするイメージへの重要な関わりが要となって来ます。

 

 

礼文島では、どこの学校においても晴れ間のある天候勝負となります。これが作者にとっては一番厳しい。学校の約束日に必ずしも期待する晴れ間とはならない事が付きまとうからです。それはそのまま学校の皆さんにとっても予定変更のまた変更では厳しさを強いる事になるからです。 また、いつ終わるかわからないのも滞在期間への限度も考えなくてはなりません。

一応には、滞在期間のお尻は決めずの渡航できましたがあくまでもそれは私自身のサイドの事で、学校にはかなりの気遣いは絶対的な必須条件です。 決めた日に終えられる事が最もベストであります。 私が胃が痛くなるというのはこう言う思いに立たされる時であります。何とか無理がないままでそれぞれが終えて欲しいの一念です。

 

 

 

教育長との午前中の会談のあと、午前中の後半から午後にかけては、いよいよお初の対面となります校長先生との会うための挨拶回りを今日は1日島内を回らさせていただくことにしました。

教育委員会が島の南側の起点であることで、学校はこの場所から北へと進むことになります。

まず、最初の香深地区から礼文小学校(今野校長先生)、香深中学校(関谷校長先生)とお会いし、次なる場所の小学校へ。 こちらでは冒頭で申し上げてました検討中をお願いしていた学校で、島に渡って来た時にあらためてお尋ねをさせて頂く事で保留にしておりましたところです。

実際にお会いしまして(うっかり検討中のままの状況下である学校だった事を忘れてしまい通常の了解いただけている学校と同じようなご挨拶となってしまい失礼いたしました=再度重ねてお詫びいたします)、校長室に於いていろいろと校長先生の理解が未だに得られない事をあらためて伝えられれました。 その事では、私のこうした活動自身の話しはご理解はあるものの、具体的に「写真展覧会」の日程とどこで開催する事となっているのかを問われまして、それがまず分からない事が難しさを感じていらっしゃいました。  確かに私自身に於いてはまだ決まっていない事がありまして、近いうちにはそれを叶えたいとの思いはお伝えさせていただいたもののそこが厳しい要となっている事が校長先生の思いの中にありました。

「子供たちにこの度の記録をした事での結果としてのいわゆる教育活動としての意味で、なんて説明して良いのかが得られない」・・・なるほど、その事が今回の保留にせざるをえない見えてない事だった事がはじめてお会いすることで分かるものでした。

私は、率直に感じたのは、子供の事を一番に考えているんだな~と思いました。もちろん、他の学校の校長先生はそうでないという意味では全くないので誤解はしないでください。 つまり、そういう方向でのこどもへの配慮がある事をあらためて感じ取るものでありました。 それはまた一つの形として尊重したい思いでありました。あとは、今ここで私が出来る事とは、その具体的にどう子供たちに結果を伝えていくことが一つの教育への一環としてこのテーマが生きて来るのかを他の解釈で校長先生に訴える事しかないのです。 肝心なのは、具体的に写真展覧会は決まってないわけですから・・・他の意味での結果を示せるものをちゃんと用意できるかどうかだと判断しました。 その上では、後に必ず学校へ記録した写真をお送りしていることでは、きっと子供たちにあの時に撮ったものはこうなって映ったんだよ~と示すのも一つの形にはならないだろうか?!。また、一方では写真を職業としている身の人が世の中で仕事をしていて、そう言う人がやってきて子供たちの前で見てもらうことも教育にはならないだろうか?と、おこがましい話ですがそう言う提案もさせていただきました。

しかしながら、校長先生の心を動かすだけの私からの話しには至らず乏しかったようでそこからは進められるものではなかったのがこの度の実際でした。

こちらの学校では今年は研究校の対象となっていることで、今月の18日にはその発表を迎える事では、他の学校とはまた別に超多忙な中でのお尋ねだった事も理解し、そもそも気遣う意味が向けていた事でも私から話しをさせていただきました。 でも、校長先生は、「せいぜい9人の子供を出すくらいは別に大変な事ではなくそれは気にしないでいいと思いますよ」と言ってはくださいました。要は、こどもへの記録における配慮の結果を示せるかどうかの問題なのです。そこはとうとう私の至るまでの力はなかったのがまずは結果でした。

さすがにそれ以上の話は時間を余計に強いるだけなので、あとはこの島に居る期間中に、せめて今一度、今日のお話を汲めるところがありましたらぜひお考えくださいましてと言葉を残し、学校を後にする事にしました。

校長先生も何とか「これまで!」との断りまではいかずの維持をしてくださっての好意は頂いたものの、一週間以上経ってから今一度お尋ねをしますとの事を残して時間を置くことしかあとは可能性は無いものではありました。

私としては、島内の学校は一つ残さずに記録できたらいいな~と頭をかすめる思いはこの時には正直すでに生まれつつありました。 それは、参加校が募れば募るほど気持ち上には島内の全部の学校を完結させたい思いは生まれてくるものはどうしてもあります。

その場を離れて移動する車の中では、「やはり厳しいのかな~」が胸に抱えての次なる挨拶への学校へと向かうものでした。

 

実は、この事では後に一つの大きな問題が発生となる起因が結果としてここからはじまるものであります。

この事ではきちっと取り上げなくてはならない私の行動から困難を来す大事なトラブルとも言えるので、今回のこうしたテーマでの学校訪問の一環では、今後の事を考えると重要な要件でもあり、再発しないためにも自己の確認と事実の起こった実態の報告は不可欠と判断します。 特に今回の公募を合わせてのプロジェクトにおいての活動での事柄では、公的活動でもある事から公表する意味でも、この件については別枠としてご報告しなければならないと思います。後ほどあえて取り上げさせていただいて次に活かす事を考えます。

 (注)後にこの件では、報告上好意的な対象の話題とは通じてはない事で、この箇所のみについては余計なご迷惑をかけぬよう細心の注意から個人を守る意味でも学校名と実名はあえて控えさせていただいています。みなさまのご理解をお願いいたします。
さて、午後の訪問校では、更に北へ進み、船泊小学校(坂本校長先生)、神崎小学校(石澤校長先生)、そして船泊中学校(岸田校長先生)とお会いをしまして今日のご挨拶は無事に終える事が一先ず出来ました。

 

あとは、実際の記録に専念して行く日々を過ごす事となりました。

 

次のページへつづきます。

 

 

 

2ヶ月間の初の長大期間の学校訪問へ!~北の果てへのこどもたち~「活動の流れ」①

活動報告

8月21日午後より出発し、一路青森は下北半島を目指します。

途中福島県にて仮眠をし、22日の朝に東北縦貫国道4号線をひたすら北へ進みます。

8月23日の午後3時の便で函館へ。

 

北海道の初日となる第一校目は25日の森町立駒ケ岳小学校。ここは1年越しでの良い時をねらった記録が要で、背景には駒ケ岳がそびえることで昨年度は行きも帰りも山が頭が出ずに来年度へ託すことに。

その年度がこの日となったわけだが今回も頭が見えてない・・・こればかりは仕方がないので、校長室で長谷川校長先生と次の打ち合わせをし、帰り路にまた機会を待つことに。

今日は時間が空いたことを好都合に、森町の教育長にお会いしたい思いから、校長先生にお頼みし、お約束を取っていただいて11時に面談する事になりました。教育委員会の教育課長の武井さんにご挨拶を終え、教育長の香田様に会いました。 私はこのテーマ抱える担える「こどもはみらい」と言う将来的な思いへの事でお伝えさせていただきました。 また帰りにはこの町にお邪魔する事からもお知らせをいたし、香田様からも町の学校のいろいろをお話くださりました。忙しい時間をいただきありがとうございます。

北海道は広いです。移動には丸々1日かかるのもよくあります。みなさまが当たり前に使います「高速道路」も、私にとっては「贅沢」の2文字です。下道をつないで目的地へ。

明日の25日は当別町です。こちらは2年越しでの訪問記録願いで、やっと今年度に北海道入りがまた叶った事で確実となりました。「弁華別小学校」と「弁華別中学校」の2校が予定しています。小学校の方は、今回2回目で、3年前の10月に記録いたしました。教育長からもここの校舎は北海道でも増毛小学校の木造校舎と並んで道内最古の木造だからいい写真を取って残していってくださいね・・・とお話下さっていたので、今回もその思いを乗せて取り掛からさせていただきました。この間、布施教頭先生には2年間のいつも窓口になっていただいていてありがたく思います。山口校長先生からは、私がフェースブックに登録していることで、友人依頼を受けましてその時に登録いただけましたね。あまり活発には使い切ってはいないのですが、嬉しいご要請で思わぬ機会をいただきました。 今後共よろしくお願いいたします。  また弁華別中学校では、同じに2年越しでのお頼みをさせていただいていて、浅田校長先生には長くお待たせいたしました。 思い叶って来れた事を嬉しく思います。また、皆優しい子ばかりの穏やか生徒さんで印象に残るいい子ばかりでしたね。

次は、具体的な日時設定でない、天候優先の昨年度期待通りのものが撮れなかった分の再度挑戦の訪問です。日本の最北端のブランドを誇る宗谷岬の「大岬小学校」です。  井村校長先生の熱い思いに支えられて、今年度も再度のトライに意欲的に取り組んでいただき、天候に合わせてうまく記録への時間を調整してくださるとの昨年度からのお話を頂いていた事で、とてもスムーズに動く事が出来ました。おかげさまで、晴れ待ちの日にしっかりと思いを形にする事が出来ました。  おまけに、高い位置を決めて撮りたいことでは、用務の方のご配慮からリフト車登場で高く上げていただきました。自由な場所からの位置決めが出来て大変ありがとうございます。

おおよそ、26日から9月2日までの期間は天候待ちと昨年度雨で流れてしまった「稚内市立天北小中学校」がある事で、さっそく晴れを待っての記録に専念する事になります。 昨年度の訪問時には、花田校長先生と初対面ではありましたが、とても好意的にお迎え頂き、更には長い時間を割いてでのたくさんのお話しや、今の時代的な話題の部分では盛り上がりまして意気投合した思いに嬉しく感じていました。 そういう事もあり、またの機会で来れてお会いできる事は大変ワクワクする思いで私の学校へ行く大きな楽しみでありました。 そう!1年ぶりに花田校長喫茶室ならぬ引き豆コーヒーをたてていただき、また美味しくいただきました。 旅中の私とって久々の引き豆のコーヒーはなんとも幸せな気分です。 今回は綺麗に晴れ渡り絶好の記録日となりましたね。  小学校中学校合わせてのタイミングには皆様からのお力をいただきました。 2度の訪問でお時間をいただきありがとうございます。

同じく、昨年からのお約束では、稚内市立声問小学校もあり、まずは稚内入りで来た事で顔をだし、阿保校長先生に1年ぶりにご挨拶をさせていただきました。 こちらには昨年度稚内西中学校でお世話になりました岡田教頭先生が今年度よりご赴任されてまして、合わせて久しぶりの対面となりました。  さっそく次なる日程の話で、このあと礼文島、利尻島への主体となるこの度の島への滞在テーマでは、その渡る前に1日組んでいただきまして、声問の子供たちとの時間が叶いました。 いい時間が流れました、ありがとうございます。 天候が今ひとつでしたので、またの機会でお邪魔できたら幸いです。

 

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9月8日 礼文島に客船「日本丸」が来航。 一日中停泊して礼文島観光に船客が島巡り。 

 

9月3日(木曜日) 午後5時台の礼文行きの船の時間の前に、かねてより稚内市の「教育長」にお会いする事を希望していましたことで、午前中にお会いできるかどうかを教育委員会を訪ね、その時の時間の流れでうまく教育長の表様にお会いする機会をいただけました。  すでに3年目にこちらの訪問校を増やして来ている事では、ご挨拶が後回しになってしまっていた事では自分としては心痛く感じており、その旨をお話しするとともに、本テーマでの「こどもはみらい」の思いをお伝えしました。この稚内の子供たちでの発信も加えていきたい気持のものです。

いよいよ、今回の主となる行程のはじまる「礼文島」への渡航が目の前に迫ってきました。

 

 

● 礼文島での活動報告は次のページに移します。

 

 

 

 

 

 

2ヶ月間の初の長大期間の学校訪問へ!~北の果てへのこどもたち~「帰ってきました」

8月21日から10月20日の2ヶ月間の長期に渡る学校訪問の期間が終わり昨日に帰ってきました。

今まで長くとも3~4週間に比べ、初の長大期間の北海道への「おらが学校の・・・!おいでよ~ここへ!!」および「ようこそにっぽんへ!!」の取材でありました。

2ヶ月に渡る長~い北の果てへの“生活”は、すべて車の中にて過ごします。今回はいつもになく疲れましたね~。_RBN0855S[1]
礼文島にの礼文空港への道にて・・・

 

このあと、追記で書き込みます。しばらくお待ちください。

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「活動報告」__________________________________________

(まずはじめに) 今回は初の公共ファンドを募りながらの公募プロジェクトをも活動期間中に合わせて行動をいたしました事で、私の通常の単独のものでは無かった事で活動の様子をこの場所にてできる限り詳細にご報告申し上げます。

プロジェクト自身は、この度お世話になりましたファンド会社であります「READYFOR」のスタッフの方のご指導のもと、私の取材形態の様子から45日~60日間の北海道滞在とすべてにかかる材料および経費、その間の背景にある維持しなくてはならない総定額をも双方のやり取りの中で設定してのスタートを試みてみました。

結果から申し上げますと、スタッフの方の公開にあったての公募への制作のご努力を頂いての思いも叶わず、今プロジェクトは成立せずに白紙撤回終了となりました。

本来、プロジェクトの公募期間中に私の方での様々なアプローチや公募での募る努力をしていかなければならない所でしたが、学校訪問という期間的な事が最優先される事情から、プロジェクト期間中にすでに活動していなければならない事ではかなり無理がきたすものでした。そのため、プロジェクトへの関わりでの成立に向けた努力も出来ずに、せっかくのご支援いただいた方のご協力、そしてレディーフォーのスタッフの方のご尽力に対して申し訳なく思います。

関わってくださった期間中の様々な方へ感謝を申し上げます。ありがとうございました。

そもそも本テーマによる訪問活動とその作品でのあらゆる経費については、1996年から始まってから今まですべて持ち出しで成り立って来ました事では、3年ほど前からはほぼ通常生活面からも限界を過ぎていて、その活動をどう続けていくかが大きな壁となる課題でした。
このファンドへのチャンスがある場所を知ったことでは、テーマを続けて維持継続する事では大変心強いものです。

すでに限界を感じ始めたこの3年以後は、その周りからの人も絡めた(身内など)「借り」を日頃の活動への前提とした今の維持からは、このほど知ったプロジェクトへの存在は大きく、それが叶わない限りは続ける事の維持活動には限りなく自分の身に強いるだけのみであります。出来る事からをしているだけの事があとは残された私の出来る事です。

プロジェクトの成立できるか否かの行方に問わず、現実に今を歩かなげればならない学校訪問期間中はいつものように最低限の行程の暮らしと車生活がはじまります。決して無駄と「贅沢」の2文字は禁句です。

よく、人からあちこち行けていいですね~と言われます。「現地の美味しいもの、名物が食べれてうらやましい」と必ず言われてしまいますが、一切の食べれる状況ではありません。かなり質素に普段通りの食材が日々を支えます。

本当は、今回礼文島、利尻島への主となる行程では、29年ぶりに島の「ウニ丼」を食べられる事が楽しみにしてきたのですが(元々ウニが嫌いだった私。29年前に思い切ってウニ丼を食べた瞬間、今までの“ウニ”ではなかった・・・それ以来大好きになったのがここからなので)、結局はそれは「贅沢」だった私の今を考え食べずに帰りました。2ヶ月間の車での“キャンプ”は慣れているとは言え、さすがに今回はいろんな意味できつかったです(笑)。

とにかく無事、戻ってきてホッとしました。

 再度あらためて申し上げます。

この度は、プロジェクトに於いてご支援をいただきました方には、成立にならずにせっかくのご好意が戻される形となり大変申し訳なく失礼いたしました。

思いを向けて下さり感謝の限りでございます。誠にありがとうございました。

則直泰。

 

 

引き続き、

具体的な活動報告は、この次のページにつづく・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本最北端の北海道の小中学校の子どもたちに会いに行く!」プロジェクト  READYFOR支援者~1~

レディーフォーファンドの支援者様にお礼です。

第一号の「ヨネザワ様」2015.7.31  於いて、 さっそくのご支援と大きなファンド金をありがとうございます。

「mar様」2015.8.19 於いて、大きな額のご支援でびっくりです。達成すると本当に嬉しく思います。

 

ファンドも進行中ですが、計画のこのテーマでの日本の最北端の子供たちに会うために本日8月21日より出発します。

周りからのお借りしての行程なので、なんとか募って叶うといいのですが・・・これからもどうぞ見守っていてください。

では、ステキな出会いを求めて行ってきます。

 

則直泰

 

 

 

 

 

みなさま、公募をいたしました! 本日より開催中です。

本日7月31日のお昼より、学校訪問活動における活動費への協力をいただくための一般公募をいたしました。

[READYFOR]ファンドを募る会社。

プロジェクト名

「日本最北端の北海道の小中学校のこどもたちに会いに行く!」

レディーフォー開催ページへ。 →  https://readyfor.jp/projects/5046

 

こどもへの思いを高め、明るい未来への希望が向けられて行くための活動に共感いただきまして、一緒に目指していきましょう。みなさま、どうぞこの活動へのご支援、ご協力を賜りたくお頼み申し上げます。

また、ぜひお知り合い、周りの方へのこのテーマが存在していることをお伝えしていってください。

そして、こうした活動への関心と協力を頂ける方へも広めて行っていただきたく存じます。

どうぞよろしくお願いいたします。

吹屋小学校 閉校式 ~その時!~『エピソード』日本最古の現役木造校舎 その閉校式を迎えた話し。今ふたたび…..

 

 

 

 

あれから3年経ちました。  今、3年の時を経てその姿のベールをはがしてここに登場す!

  ~頑に作品の公表を避けて守って来た事で、ようやくその解除期間を解き放します~

【今だからこそ、裏話!~その時の模様を話してみます】
どうにもこうにも行かなければ気持ちがおさまらなくて…………..ついに向かったのです!
 
 
特別な思いの吹屋物語です。 この活動を通してこんな出会いや特別な機会にめぐり合う事もあります。
 
そう言う中のとても印象に残ったお話をご紹介します。  
すでにヤフーブログでそのエピソード話をしておりますので、そちらをご覧下さい。  
全国に名の知れ渡る「現役最古の木造校舎の学校の吹屋小学校の閉校式」の模様からです。
3年の時を経て、ようやくその明らかな当時の様子をお話しいたします。
 
今まで、このテーマではネット上には出さない事を徹底している作品なのですが、
すでにここの場合は各メディア、報道すべてに公表している事も当時からありまして、
その事では私なりに周りとの状況とは一切切り離して3年を待つことで今までに至っておりました。  
 
本日、そのベールを脱ぐがごとく、当時の模様と、
正式な私が記録した事による「吹屋小学校の閉校式記録写真」を初めて公開致します。    
詳しくは下記のURLから移動してご覧下さい。

     

 

吹屋小学校 閉校式    ~その時!~

『エピソード』日本最古の現役木造校舎 その閉校式を迎えた話し。
                       
 
2012年3月20日  

 

 岡山県、高梁市立 吹屋小学校

 
 

                       

                      私の外部のヤフーブログへ。           

 http://blogs.yahoo.co.jp/oraga_gakkou/folder/1583802.html

 
 
 
 
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     正式の「吹屋小学校閉校式の作品記録」です。

 
 
 
 
        これがあとにも先きにもこの記録が吹屋小学校の歴史を形にする最後の印象記録の作品です
 
 今まで、各新聞,テレビ報道では当日以降からこのシーンの場面をご覧になられて来たかと思います。
それはこの作品を記録する際に、同時進行でみなさまが脇からとらえていたものが配信となっておりました。私はそもそもがネットでは作品自体を載せる事はしていなく、今回はすでに公に登場している事で、3年間は出さずにおりました。このほどその様子の全てをここでお伝えするに至りました